#185 下野薬師寺の盛衰
2023-06-12
ホームページのリニューアルのせいもあって小欄も少し間が開いてしまいました。
時の移ろいは早く、前回正月に行った三河・金蓮寺のうんちくからはや4ヶ月が過ぎ今年ももう6月となって半年が過ぎようとしています。
今回は栃木市で現場があった際に立ち寄った下野薬師寺跡について触れてみたいと思います。下野市は群馬・栃木北関東2県の古名である上野(こうづけ)と下野(しもつけ)の後者の名前を冠した宇都宮と小山に挟まれた栃木県南部の町で、施設としては自治医科大学がある市として知られています。
ここにかつて1200年以上前の聖武天皇時代に日本三戒壇と呼ばれた官営の寺院・薬師寺が置かれていたことはあまり知られていません。
戒壇とは当時正式な僧になるための養成機関とでもいったらよい施設のことで、754年に鑑真が東大寺に設けた戒壇が最初のものでその後筑紫の観世音寺、そして761年にこの下野薬師寺が設けられました。それぞれが地域によって担当が分けられ、関東地方から以東を下野薬師寺が、信濃から西、中国地方までを東大寺が、九州を観世音寺がその任を担うことになっていたようです。「天下の三大戒壇」と謳われ、8世紀後半から9世紀にかけて大いに隆盛を極めたといわれています。
そもそも仏教が伝来してから間もない日本では戒律が不完全で、出家は税を免除されていたため税逃れのために出家し得度を受けない私度僧が多く、修行もせず堕落した僧が多かったとされます。そのため唐より鑑真を招いて正式な戒律が伝えられ、戒律を守れるものだけが正式な僧として認められることとなったのです。この下野の地に関東以東の僧志願者が正式な僧になるべく集まってきたことを思うと、その正式な数は記録にありませんが施設の規模もそれなりに大きなものだったことが想像されます。
これまでの発掘調査で分かってきたところでは、外郭施設(外塀)の規模が東西250m、南北350mでその外側には堀がめぐらされ、中門内の戒壇周囲の瓦葺回廊が東西110m、南北102mに及んだことが判明しています。さらにその境内の中には五重塔と金堂、食堂が配されていたといいます。多くのお国訛りの言葉と共に剃髪した若者たちが行き交い修行に励んでいた光景が目に浮かびます。
しかしその殷賑さも長くは続かず、9世紀中ごろの大火災で伽藍中心部を焼失し、さらには延暦寺の大乗戒壇に勅許が下されたことから宗教・権力論争に発展し教団を持たない下野薬師寺は衰退していきました。
その後廃寺になりかけたものを鎌倉時代に慈猛上人が復興し、更に南北朝時代には足利尊氏が戦死者を弔うために安国寺と改称して発展をみますが、戦国期に後北条氏と結城多賀谷氏との争いの戦火に巻き込まれ再度堂宇を焼失してしまいます。
以来原っぱ同然にその跡地だけを残して近年まで伝わっていましたが、平成29年に本堂や山門を修理、これを機に寺名を安国寺から創建当時の下野薬師寺に寺名復古しています。現在ある戒壇堂は江戸中期に建てられた六角堂ですがこれも令和になって修理され回廊の一部復元のものと共に往時を偲ばせてくれます。
今後願わくば創建当初の堀をめぐらし五重塔や金堂が建つ下野薬師寺復興がなされればと思うのは夢物語でしょうか。藤原京から平城京に遷った古代日本の夜明け時代に、関東以東の戒律を行うことを任された施設がこの下野市にあったということはもっともっと知られていいと思います。
余談ながら、聖武天皇の娘の称徳天皇の時代、その寵を受け権力を思うままにふるった僧・道鏡が宇佐八幡宮神託事件により称徳帝死後失脚しますが、その770年にこの下野薬師寺別当として着任してきたこともあまり知られていないことです。着任といっても当時の下野への移動ですから配流同然だったはずで、藤原氏との権力争いに敗れ奈良の都から600㎞降ったこの地に失意と無念の内にたどり着いた道鏡。
その墓でもあればと探しましたが、赴任の2年後に没し庶人として葬られたとあります。その遺骨は下野薬師寺の盛衰と共にこの境内地のどこかに埋もれたままなのかもしれません。
時の移ろいは早く、前回正月に行った三河・金蓮寺のうんちくからはや4ヶ月が過ぎ今年ももう6月となって半年が過ぎようとしています。
今回は栃木市で現場があった際に立ち寄った下野薬師寺跡について触れてみたいと思います。下野市は群馬・栃木北関東2県の古名である上野(こうづけ)と下野(しもつけ)の後者の名前を冠した宇都宮と小山に挟まれた栃木県南部の町で、施設としては自治医科大学がある市として知られています。
ここにかつて1200年以上前の聖武天皇時代に日本三戒壇と呼ばれた官営の寺院・薬師寺が置かれていたことはあまり知られていません。
戒壇とは当時正式な僧になるための養成機関とでもいったらよい施設のことで、754年に鑑真が東大寺に設けた戒壇が最初のものでその後筑紫の観世音寺、そして761年にこの下野薬師寺が設けられました。それぞれが地域によって担当が分けられ、関東地方から以東を下野薬師寺が、信濃から西、中国地方までを東大寺が、九州を観世音寺がその任を担うことになっていたようです。「天下の三大戒壇」と謳われ、8世紀後半から9世紀にかけて大いに隆盛を極めたといわれています。
そもそも仏教が伝来してから間もない日本では戒律が不完全で、出家は税を免除されていたため税逃れのために出家し得度を受けない私度僧が多く、修行もせず堕落した僧が多かったとされます。そのため唐より鑑真を招いて正式な戒律が伝えられ、戒律を守れるものだけが正式な僧として認められることとなったのです。この下野の地に関東以東の僧志願者が正式な僧になるべく集まってきたことを思うと、その正式な数は記録にありませんが施設の規模もそれなりに大きなものだったことが想像されます。
これまでの発掘調査で分かってきたところでは、外郭施設(外塀)の規模が東西250m、南北350mでその外側には堀がめぐらされ、中門内の戒壇周囲の瓦葺回廊が東西110m、南北102mに及んだことが判明しています。さらにその境内の中には五重塔と金堂、食堂が配されていたといいます。多くのお国訛りの言葉と共に剃髪した若者たちが行き交い修行に励んでいた光景が目に浮かびます。
しかしその殷賑さも長くは続かず、9世紀中ごろの大火災で伽藍中心部を焼失し、さらには延暦寺の大乗戒壇に勅許が下されたことから宗教・権力論争に発展し教団を持たない下野薬師寺は衰退していきました。
その後廃寺になりかけたものを鎌倉時代に慈猛上人が復興し、更に南北朝時代には足利尊氏が戦死者を弔うために安国寺と改称して発展をみますが、戦国期に後北条氏と結城多賀谷氏との争いの戦火に巻き込まれ再度堂宇を焼失してしまいます。
以来原っぱ同然にその跡地だけを残して近年まで伝わっていましたが、平成29年に本堂や山門を修理、これを機に寺名を安国寺から創建当時の下野薬師寺に寺名復古しています。現在ある戒壇堂は江戸中期に建てられた六角堂ですがこれも令和になって修理され回廊の一部復元のものと共に往時を偲ばせてくれます。
今後願わくば創建当初の堀をめぐらし五重塔や金堂が建つ下野薬師寺復興がなされればと思うのは夢物語でしょうか。藤原京から平城京に遷った古代日本の夜明け時代に、関東以東の戒律を行うことを任された施設がこの下野市にあったということはもっともっと知られていいと思います。
余談ながら、聖武天皇の娘の称徳天皇の時代、その寵を受け権力を思うままにふるった僧・道鏡が宇佐八幡宮神託事件により称徳帝死後失脚しますが、その770年にこの下野薬師寺別当として着任してきたこともあまり知られていないことです。着任といっても当時の下野への移動ですから配流同然だったはずで、藤原氏との権力争いに敗れ奈良の都から600㎞降ったこの地に失意と無念の内にたどり着いた道鏡。
その墓でもあればと探しましたが、赴任の2年後に没し庶人として葬られたとあります。その遺骨は下野薬師寺の盛衰と共にこの境内地のどこかに埋もれたままなのかもしれません。