#190 丹下健三とイサム・ノグチ
2024-01-22
あけましておめでとうございます。
今年は元日から能登半島地震に見舞われ大変なスタートとなりました。建築に携わるものとしてその被害を見るにつけ身の引き締まる思いがします。被災された方々に心よりお悔やみを申し上げます。
我々が日ごろから携わっている建築という分野は大きく設計と施工に分けられ、その設計の分野も意匠設計と構造、設備設計などに分けられます。よい建築とされるのは意匠と呼ばれるデザインや設計計画が優れているだけでなくその構造計画や設備設計も併せて優れていることが求められます。いわば多くの人による協業作業の結果なのです。そんな協業の良い例として2021年に戦後建てられた庁舎建築としてははじめて国の重要文化財に指定された香川県庁舎を見学する機会がありました。
1958年に竣工したこの県庁舎を設計したのは世界的建築家の丹下健三氏でその構造設計を担ったのが坪井善勝氏です。このコンビはその後名建築の誉れ高い代々木屋内競技場や東京カテドラル聖マリア大聖堂も手掛けることになります。
まず意匠で素晴らしいのは四方の外観を構成する小梁と大梁のリズミカルな連続や勾欄や手摺付きのベランダが、あたかも五重塔や日本の伝統的な木造建築を思わせる点にあります。戦後間もない時期にコンクリートとガラスというモダニズム建築に「日本的なるもの」を意匠として持ち込んだ斬新なアイデアは当時評価と共に伝統とは何かという「伝統論争」も呼び起こし、縄文的なるもの、弥生的なるものなど喧しい議論がなされたと云われます。さらに道路で囲まれた狭い敷地を市民に開放するべくピロティにて1階部分が持ち上げられ、多くのアーティストの参加と地場産の素材を使った床や椅子も置かれ戦後の民主主義を反映したものとして丹下建築の中でも最も成功したピロティ形式ではないかと言われています。坪井氏の構造設計では構造体を建物の中心に配置するセンターコア形式を日本で初めて導入し、外周部分には壁がない開放的な空間としたのが秀逸です。コアシステムの中にトイレなどの設備部分も集められ保守を容易にしています。調度品やピロティ部に置かれたオブジェなどには猪熊弦一郎や剣持勇などのデザイナーも加わりまさに協業のよき例として残されているのです。1955年の丹下事務所の手書きの青図が残されていますが、戦後まだ10年ほどで民主主義や市民への開放などという抽象概念をこれほど建築に具現化して見せたことに驚嘆します。ニューヨークタイムズ発行の雑誌特集で「世界で最も重要な戦後建築25作品」に日本で唯一選出されたのもむべなるかなです。
香川県は「アート県かがわ」を標榜するように有名建築家のしかも丹下氏の作品が多く残されています。県立体育館や県営住宅一宮団地なども氏の作品でした。
そして丹下氏と生前親交のあった彫刻家がイサム・ノグチで、この石の芸術家も香川と深いつながりを持っています。日米の混血として生を受けて主にアメリカで活動をしていましたが、晩年はこの香川県屋島付近の牟礼町で産出される庵治石(あじいし)に魅せられここに活動拠点を持っていました。その場所が現在「イサム・ノグチ庭園美術館」として保存されています。ノグチは戦後その生い立ちから芸術家としての立ち位置に悩むことになりますが、丹下がコンペ案で一等を取って実現した「広島ピースセンター」で慰霊碑デザインをノグチに依頼し、精魂を込めて造り始めた矢先、上からアメリカ人の手による慰霊碑はいかがなものかとの批判が入り断念せざるを得なかったことは以前この稿でも触れたことがありました。
牟礼町には石切り場周辺に多くの石屋さんがひしめき合っていてその高級石材の庵治石をブランドとしています。「花崗岩のダイヤモンド」と言われる庵治石は硬質で目が細かく研摩すると斑(ふ)と呼ばれる模様が浮き出て多くの人を魅了してきたとされます。石の彫刻を多く残したノグチもこの石を求めて牟礼の地に居を構えたのでした。縄文的なものから古墳時代的なものへと造形を追い求めて作品を深堀していったノグチに対して、後年は金属とガラス、石によるメタリックな箱型建築へ向かった丹下氏とはその行先の方向は相反した経過を辿りましたが、二人が広島で感じ追い求めた共通するものを起点として互いに尊重しあっていたことは丹下のノグチへの追悼文でも分かります。土地の記憶、素材、風景、それらが建築や芸術の原風景になっていることをあらためて感じさせられました。
余談ながら、源平合戦当時は島だった屋島ですが、現在相引川で隔てられているとはいえ江戸期の新田開発によって陸続きとなり島でなく山になっていることをここへ来るまで知りませんでした。さらに海から300mも高いその頂上に屋島水族館があることも。