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社長のうんちく

#188 出流山満願寺の観音様

2023-10-23
 近在で美味しい蕎麦を食べようと思うと、最初に浮かぶのが栃木市にある出流山(いづるさん)でしょうか。坂東三十三観音第十七番札所として有名な出流山満願寺の門前でいくつかある蕎麦店が有名です。足尾山地の南面中央にある標高655mほどの出流山を中心に水のきれいなところとしても知られています。
 この辺からだと1時間ほどで行ける距離のため蕎麦好きの人はよく満願寺に詣でながら出掛けることが多いようです。
 この真言宗智山派に属する満願寺の縁起は古く、奈良時代の天平神護元年(765年)に日光山のもとを作った勝道上人によって開山されたといわれていますから、1250年余の歴史があることになります。おそらく修験道の中で奥の院にある断崖の中に見つけた鍾乳洞がその起源なのではないかと思われます。本堂から少し険しい参道を40分ほど登ると崖地の洞窟の中にあたかも観音様のような姿をした異形の鍾乳洞が見られます。いまでこそ懸造りの舞台がつくられ容易にそれを見ることができますが、当時は修験僧が命がけで崖を上って見つけたのだろうと想像されます。この形から「観音の霊場」で子宝を得ることができるということに発展して、現在でも子授け・安産・子育てのご利益があるとされています。

 寺院境内は山岳地帯にも関わらず伽藍群が揃い、これまでの殷賑さが偲ばれます。
 長い年月の間に火災の被害もあって建物類は築年数に違いがありますが江戸期のものが多くを占めているようです。最初の山門も享保年間の建立で二層の仁王門形式になっており一対の仁王像は足利時代の作とされます。茅葺であったものを昭和初期に金属瓦棒葺きに葺き替え、平成2年に解体修理を行い市の文化財指定となっています。駐車場が山門内にあるため脇を車で通ってしまうとスルーしてしまいがちですが、できれば車は山門外で停めて歩いて山門を見上げながら境内に入らせたいと思うくらいに立派です。山門を過ぎると同じ享保年間建立の薬師堂を左に見て川を渡ると堅牢な檀信徒会館と本坊に突き当たります。これらは元治元年に焼失後ずっと仮書院として使用してきたものを昭和53年にコンクリート造5階建てで再建したものです。川の反対側に位置する一風変わった屋根を持つ鐘楼堂も同じ時期に再建されコンクリート造になっているのを鑑みると火災の被災を繰り返さないとの意思を感じさせます。
 それをさらに過ぎ川を太鼓橋で渡ると階段上に御堂(本堂)が見えてきます。
 室町期足利義満の寄進によって建立されたと伝わりますが、やはり江戸中期に焼失し当時の住職が営々辛苦の末に明和元年に再建したものだそうです。
 八間四方の入母屋造り形式で、正面唐破風向拝付きと身舎三手先龍の彫刻が全面に施されて壮観です。江戸中期の堂宇建築の代表的なものとされ、筑波山の大御堂、奈良興福寺大御堂と共に日本三御堂と並び称されていることも頷けます。
 焼失した本堂には大日如来がご本尊として祀られていましたが現在は弘法大師ご敬刻(?)の千手観音菩薩が安置されているそうです。ここでは今も毎日護摩修業が行われているとのことでその信仰の篤さが伺われます。
 この御堂からさらに山道を登ったところが前段で紹介した奥の院で、その周辺には滝行ができる大悲の滝や女人堂、聖天宮など配されこれまで含めると山岳地帯とはいえ、かなりの広さの境内地を有していることになります。

 奥の院への山道入口に「ヤマビルに注意」の掲示板があり、刺された際には塩をこするように案内が出ていましたがその塩箱は空っぽ。気に留めず出発して奥の院に着いたころ脚に痛みを感じたので裾をめくってみたら黒いヒルが二匹ほど吸着いていて慌てて振り払いました。ヒルの傷口は消えるまでに数ヶ月かかることもあるといわれ、いま二ヶ月経ちますが皮膚の赤味は消えていません。
 お風呂上りにその足の傷跡を見るたびに、下山して小一時間ほど待って食べた蕎麦のおいしさと共に奥の院の観音像の光景を思い出しています。
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