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社長のうんちく

#187 北条政子と金剛三昧院

2023-09-16
 今年令和5年(2023年)は空海の生誕1250年の年に当たり、高野山では誕生日の6月15日を中心に「いのちよ輝け~大師のみこころと共に~」のスローガンのもと宗祖弘法大師御誕生1250年記念大法会が2か月近くにわたり開かれました。
 全国各地からバスを連ねて法会に参加された檀信徒の方々も多かったと聞いています。8年ほど前にも空海の高野山入定1200年祭が盛大に執り行われたのはまだ記憶に新しいところです。
 その高野山には百数十棟の伽藍群が建ちならんでいると言われますが、幾多の火災により平安創建時のものは皆無で鎌倉時代に属するものも金剛三昧院多宝塔と経蔵そして移築された金剛峯寺不動堂のみとされ、このうち三昧院多宝塔と不動堂が国宝に指定されています。今回この金剛三昧院(さんまいいん)多宝塔を見る機会があり紹介したいと思います。
 金剛三昧院の前身は北条政子の発願により源頼朝公菩提のために創建された禅定院がもとになっているといわれ、開山供養にはかの禅宗の栄西が招かれて開山一世となっています。
 その後実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院に改称し、以後鎌倉将軍家の菩提寺として信仰されてきました。その裏方で活躍したのが将軍家の側近である安達景盛で、実朝暗殺事件後出家し高野山に入りこの金剛三昧院を建立したのです。
 一見、高野山真言宗の本山に鎌倉幕府とつながりの深い禅宗の寺院が建てられたことを奇異に感じるかもしれませんが、高野山側にも幕府とのつながりを保てるとのねらいもあったのではと推測されます。改めて金剛峯寺に吸収されるのは後年江戸時代になってからのことになります。

 この多宝塔は石山寺多宝塔(大津)に次いで古く、その建築美は多宝塔の遺構中最も美しいと形容されています。裳階(もこし)を広く取り安定感に富んでおり、その柱、肘木、垂木、桁はすべて面を取り、軽快な意匠とし裳階の意味をよく表しているとされます。台輪を用いず頭貫だけで納めているのも多宝塔本来の姿を示していて、中備(なかぞなえ)の蟇股も簡素な意匠ながら脚が左右に長く伸びて形がよく美しさを引き立てていす。内部の須彌壇を除いて後世の手が加わっていないこともその価値を高めています。
 かつては日野富子、淀殿と並んで三悪女と呼ばれたこともあった政子ですが、この金剛三昧院の姿を見るにつけそれは不本意だろうと同情の念を禁じえません。
 日本史上初めて武家政権を樹立した鎌倉幕府にあって、初代頼朝を支え、その亡き後も様々な権力闘争の中で頼家、実朝と二人の子供を痛ましい事件で失い、幕府最大の窮地であった承久の乱の際には御家人に檄を飛ばし幕府を守った政子。68年の生涯はまさに鎌倉政権の立役者そのものであって、その波乱の人生は決して幸せな時間ばかりではなかったことが察せられるのです。この空海が開いた高野の地に菩提を弔うため安寧の地を求めたことを鑑みても、実は強さの中にやさしい心根のあった人ではなかったかと美しい多宝塔の姿を見て思わずにはいられませんでした。
 あいにく内部は公開されていませんでしたが、写真などを見ると四天柱に支えられて須彌壇上に五智如来像が創建時のまま据えられています。装飾文様が極彩色で残され禅宗様の天井組と共に鎌倉期の信仰の篤さを伺い知れて感動的です。
 金剛三昧院のある場所は高野町の目ぬき通りから高野山大学をさらに南に入った行き止まりの地の静謐な林の中にあります。金剛峯寺や根本道場のきらびやかな密教建築とは少し趣を異にした中世建築は、政子の思いと共に静かに800年の星霜を刻んでいます。
赤石建設株式会社
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