#182 八ッ場の70年
2022-09-05
昭和22年9月に襲来したカスリーン台風はその雨量の多さで甚大な洪水被害を関東以北にもたらしたことで歴史上にその名を残しています。東海地方に接近したのち太平洋沿岸をなめるように北上し三陸沖に抜けたルートでしたが、停滞していた前線を刺激して大量の雨を2日間に渡り降らせました。風の被害は少なく典型的な雨台風で、秩父で611㎜、箱根で532㎜、前橋や熊谷でも400㎜近い降水量が記録されています。
戦中戦後の森林伐採により山が荒れていたため保水力が低下したこともあって大規模な洪水を関東地方にもたらしました。特に利根川の氾濫がすさまじく、加須付近の堤防が決壊し東京の下町まで洪水範囲が及びました。この辺でも利根川が太田市尾島地区で決壊、多くの人が流され2階の屋根に上って何とか難を逃れたことを年配の人から聞いたことがあります。全体で死者1077人、行方不明853人との記録が残されている大惨事となってしまったのです。赤城下から埼玉・東京下町にかけての関東平野をほぼ水浸しにしたといってよい状況となったようです。
治山治水は国の第一義的な役目です。田畑を壊滅させ個人の財産権を失わせることは国を治めていく上であってはならない基本であるとの認識から、 昭和24年に利根川改修計画が策定され大規模なダムを建設することが計画され、その後利根川水系には藤原ダムや川俣ダム、草木ダム、五十里ダム等々が多くつくられました。
しかし流域住民には恩恵があったものの、一方で開発に伴う地元住民の犠牲と負担が重くのしかかり利害も絡み次第に対立を生むようになっていきます。 その典型となったのが群馬県吾妻川に近年作られた八ッ場ダムでした。ダムが計画されたのが昭和27年。 利根川支流の吾妻川を堰き止めることにより首都圏への治水対策と利水を目的に計画されたものでしたが、当初からその治水対策の算定が疑問視されたこと、景勝地の吾妻渓谷や川原湯温泉が埋没することなどを根拠に反対運動が激化し、時代と共に環境への負荷を減らすことが唱えられ脱ダム宣言が出されるなど市民意識も変化していきました。そして世間の耳目を騒がせたのが2009年の民主党政権での八ッ場ダム中止宣言でした。ダム建設に協調しつつあった勢力は反発し地元を含めて大混乱になったことは記憶に新しいところです。
結果としてダム建設が国交省諮問の検討会で再評価され建設再開に向けて動き出し、昼夜兼行の突貫工事を経て2019年運用開始になりました。
ちょうどその年の10月に通過した台風19号の大雨の際には湛水試験中に水位が満水状態になって一気にその能力が発揮されたといわれますが、一部からはその治水能力によって利根川の洪水が防げたとされるのは疑問だとの見解もあり評価は分かれています。
長さ291m、堤高さ116m、貯水量は八木沢ダム、下久保ダムに次いでの1億750万㎥という規模の八ッ場ダムは、いま一般に公開されエレベーターでダム下まで降りることができます。下から見上げるその傾斜のついたコンクリート壁は圧巻で有無を言わさず圧倒されます。
そのコンクリート量90万㎥という生コンの打設工事を考えたとき、その作業の困難さと管理工程の難しさを想像してしまうのは建築や土木に携わる者だけではないでしょう。
そして反対側のダム湖を望めば、そこにはかつてあった吾妻渓谷の一部や川原湯温泉が湖面の下にあったのだと思うと罪深さと共に環境への負荷を鑑みてしまうのです。自然の中に生きていくことの困難さを改めて考えさせられます。 山々に降った雨が峡谷を流れ野に出て田畑を潤しその養分を含んで海に流れ込むという何億年にもわたって営々と続けられてきた自然の循環を、一部とはいえいじることの不遜さとその影響は我々生きているものが正面から受け止めねばなりません。
そして人工物である以上寿命があることと想定外の自然状況下にあってはその性能の担保も保証できないという現実です。人間の力は自然の前には無力であることを謙虚に受け止めなければなりません。
カスリーン台風から75年、ダム計画策定から70年の時を経てこの人工湖に埋まっているのは渓谷や温泉ばかりではなく、多くの人の希望や無念、利害、政争という人間どもの業も埋め込まれているのです。
戦中戦後の森林伐採により山が荒れていたため保水力が低下したこともあって大規模な洪水を関東地方にもたらしました。特に利根川の氾濫がすさまじく、加須付近の堤防が決壊し東京の下町まで洪水範囲が及びました。この辺でも利根川が太田市尾島地区で決壊、多くの人が流され2階の屋根に上って何とか難を逃れたことを年配の人から聞いたことがあります。全体で死者1077人、行方不明853人との記録が残されている大惨事となってしまったのです。赤城下から埼玉・東京下町にかけての関東平野をほぼ水浸しにしたといってよい状況となったようです。
治山治水は国の第一義的な役目です。田畑を壊滅させ個人の財産権を失わせることは国を治めていく上であってはならない基本であるとの認識から、 昭和24年に利根川改修計画が策定され大規模なダムを建設することが計画され、その後利根川水系には藤原ダムや川俣ダム、草木ダム、五十里ダム等々が多くつくられました。
しかし流域住民には恩恵があったものの、一方で開発に伴う地元住民の犠牲と負担が重くのしかかり利害も絡み次第に対立を生むようになっていきます。 その典型となったのが群馬県吾妻川に近年作られた八ッ場ダムでした。ダムが計画されたのが昭和27年。 利根川支流の吾妻川を堰き止めることにより首都圏への治水対策と利水を目的に計画されたものでしたが、当初からその治水対策の算定が疑問視されたこと、景勝地の吾妻渓谷や川原湯温泉が埋没することなどを根拠に反対運動が激化し、時代と共に環境への負荷を減らすことが唱えられ脱ダム宣言が出されるなど市民意識も変化していきました。そして世間の耳目を騒がせたのが2009年の民主党政権での八ッ場ダム中止宣言でした。ダム建設に協調しつつあった勢力は反発し地元を含めて大混乱になったことは記憶に新しいところです。
結果としてダム建設が国交省諮問の検討会で再評価され建設再開に向けて動き出し、昼夜兼行の突貫工事を経て2019年運用開始になりました。
ちょうどその年の10月に通過した台風19号の大雨の際には湛水試験中に水位が満水状態になって一気にその能力が発揮されたといわれますが、一部からはその治水能力によって利根川の洪水が防げたとされるのは疑問だとの見解もあり評価は分かれています。
長さ291m、堤高さ116m、貯水量は八木沢ダム、下久保ダムに次いでの1億750万㎥という規模の八ッ場ダムは、いま一般に公開されエレベーターでダム下まで降りることができます。下から見上げるその傾斜のついたコンクリート壁は圧巻で有無を言わさず圧倒されます。
そのコンクリート量90万㎥という生コンの打設工事を考えたとき、その作業の困難さと管理工程の難しさを想像してしまうのは建築や土木に携わる者だけではないでしょう。
そして反対側のダム湖を望めば、そこにはかつてあった吾妻渓谷の一部や川原湯温泉が湖面の下にあったのだと思うと罪深さと共に環境への負荷を鑑みてしまうのです。自然の中に生きていくことの困難さを改めて考えさせられます。 山々に降った雨が峡谷を流れ野に出て田畑を潤しその養分を含んで海に流れ込むという何億年にもわたって営々と続けられてきた自然の循環を、一部とはいえいじることの不遜さとその影響は我々生きているものが正面から受け止めねばなりません。
そして人工物である以上寿命があることと想定外の自然状況下にあってはその性能の担保も保証できないという現実です。人間の力は自然の前には無力であることを謙虚に受け止めなければなりません。
カスリーン台風から75年、ダム計画策定から70年の時を経てこの人工湖に埋まっているのは渓谷や温泉ばかりではなく、多くの人の希望や無念、利害、政争という人間どもの業も埋め込まれているのです。