#198 碓氷峠のめがね橋
2024-10-10
群馬県は関東平野に向かって南東側に開けていますが北側と西側は三国山脈や関東山地に閉ざされ、昔から越後や信州への往来には険しい峠越えを余儀なくされてきました。明治から昭和にかけて雪深い地から関東へ移り住んだり奉公に出されたりと多くの人が群馬県に峠を越えて来県したことが知られています。以前にこの稿でも触れましたが私の母方の祖母も明治期新潟県北蒲原から太田の地に来た人でした。その地理的条件から前橋には新潟から、高崎には長野から移り住んだ人が多く、自ずとその気質の違いがまちの雰囲気に反映しているともいわれています。そのいくつかある峠の中でも新潟への三国峠、長野への碓氷峠がつとに有名です。まだ暑さの残る時期に久しぶりに碓氷峠を巡ってきました。
一般に軽井沢から横川に抜ける国道18号線を碓氷峠越えと言いますが、正式に言うと少し北側を走る旧中仙道、南側を走る碓氷バイパスの3つのルートがあります。時代区分により使用されたルートが異なりますが、中世から江戸時代までは北側の旧中仙道を使い、幕末の皇女和宮降嫁時に渡河を嫌って東海道ではなく中仙道を用いることになった際には、一行3万人行列を通すべく一部区間で大工事が行われ和宮道と名付けられた平易な別ルートが開拓されたといいます。明治期になると絹の輸送ルートを確保する必要もあり鉄道敷設の計画が動き出し、明治18年に高崎~横川間が、同21年には軽井沢~直江津間が開通しましたがこの難所の碓氷峠越えだけが最後まで残され、同26年になって苦難の末に開通にこぎつけるのです。この11.2kmの間に橋梁18、トンネル26を持ち最大傾斜66.7%(3.8度)という国内で最も急勾配の傾斜を持つため、アプト式という山岳鉄道の方式が用いられ敷設されましたが、電化後も難所であることは解決せぬまま平成9年の長野新幹線の開業をもってその役目を終えるまで多くの物や人を運び続けたのです。
その峠越えの中にあってかつて18橋梁の一つであった橋が、現在重文として一般公開されています。軽井沢~横川間の中間位に位置する碓氷第三橋梁がそれで、通称「めがね橋」として親しまれています。明治の面影を残すレンガ造りのアーチ橋が山と山のトンネル間の谷筋に架けられ周囲の緑と見事に調和して人気です。
少し離れた駐車場から歩いていくとその見上げるような巨大な橋が現れ、かつてレールが敷かれてあった上部まで上がることができます。英国の技師を連れてきて指導に当たらせ本格的なレンガを200万個以上も使用して作られた4連アーチ橋は細部の意匠や構造に美と力感を感じさせ、往時の技術者の力量と労力を偲ばせます。
橋の上を渡り下りのトンネルを抜けながら下の碓氷湖まで行ける散策ルートが整備されています。行くとトンネル内は氷穴のように涼しい風が吹き抜けて温度は18度ほどと冷蔵庫にいるかのような涼しさです。外で暑い中を歩いた汗が一気に引けていきます。
かつてはここを軽井沢に向けて蒸気機関車が文字通り必死に煙を吐きながら急勾配の坂道を登っていたのです。トンネル内の煙の充満で乗務員の中には吐血や窒息するものまで現れたと伝わります。
日本武尊の関東平定の頃から謳われた碓氷峠。幾多の歴史を見てきたこの難所はかつて軽井沢宿を発って横川宿に着くまでまる一日を要していましたが、鉄道では平成9年の長野新幹線開業により安中榛名駅~軽井沢駅間が10分ほどで、車では昭和41年に南側に碓氷バイパス、更に平成5年に上信越自動車道が開通し、横川SAから軽井沢ICまで7分ほどで峠越えできるようになっています。
現在信越本線は廃止され「峠の釜めし」の駅弁で名をはせた横川駅も鉄道記念館として静かに余生を送っています。