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社長のうんちく

#197 辰姫の尾島ねぷたまつり

2024-09-02
 今は太田市に併合されている旧尾島町は世良田を中心に歴史的建物が多く残され徳川氏発祥の地としてもその名を知られています。そのため世良田には東照宮が置かれ中井正清が元和期に創建した日光東照宮の奥宮拝殿が移築されて今に伝わります。
 その尾島地区には平成のはじまり頃に「弘前ねぷた」を譲り受けたことから始まり、以来「尾島ねぷたまつり」として旧盆の行事に定着してきましたが、今回孫を連れてみる機会がありました。
 以前この稿で弘前に出向いた際にも触れましたが、江戸時代初めにこの尾島地区には旧弘前藩(津軽藩)の飛び地があったことが知られています。初代藩主・津軽為信が秀吉没後の関ヶ原合戦で東軍に組みして功があったため、家康から上野国八ヶ村二千石を加増されたことに始まります。その中の大舘(おおたち)地区に津軽藩代官の足立氏が居住して、元禄年間の領地交換まで飛び地経営は続きました。
 そんな歴史的な縁を昭和60年頃に日本ふるさと塾の萩原茂裕氏が弘前青年会議所で講演した際に触れたところメンバーが興味を示し、その後尾島町を訪ねたことが始まりとなって交流がスタートしたとされます。
 当初は「弘前ねぷた」や「津軽じょっぱり太鼓」などの引っ越し公演のようでしたが、その後は地元の各種団体が自前のねぷたを作り持つようになり今の形になっていったといいます。本場の弘前ねぷたは見たことはありませんが、もともとは初代藩主津軽為信の頃から始まったとされ豪壮な武者絵が描かれているのが特徴です。尾島の目抜き通りを日が暮れた7時頃に全面通行止めにして、さっそうと練り歩く14台の山車の迫力と掛け声、絵模様の洒脱さは一見に値します。
 各山車には地元の小中学生や各企業団体の人たちが法被姿で張り付き、一緒になって盛り立て大きな太鼓の音と共に迫力満点の練り歩きに映ります。
 飛び地経営が始まって間もなく、二代藩主・津軽信枚はすでに石田三成の遺児で関ヶ原後にかくまった辰姫を妻としていましたが、北の防人として津軽家との縁を強めたい家康の勧めで家康の養女満天姫を貰い受けることを拒み切れず、止む無く辰姫を側室に降嫁させ飛び地であるここ大舘の地に住まわせることになります。参勤交代のたびに信枚は大舘に立ち寄り終生辰姫を大事にしたという話がいまに伝わります。
 側室とされた辰姫でしたが元和5年に男児・平蔵を出産しますがその4年後この大館でなくなってしまいます。母親を失った平蔵は江戸藩邸に移されますが成人してのち津軽藩3代藩主・津軽信義となっていきます。
 三成の娘として近江に生まれ関ヶ原の敗走時に預けられた縁で弘前・津軽家へ嫁ぎ、その後政治的策略から正室の座を奪われ側室としてこの群馬の地に至り、世継ぎを産むも若くしてこの地に没したその波乱の足跡に思いを巡らし、歴史に振り回された辰姫の思いを胸にねぷたの雄々しい姿を見ていると400年前のこととはいえ、辰姫の望郷の想いが尾島ねぷたに詰まっているように思えて少し胸に迫るものがありますね。
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