#196 神護寺―空海と真言密教のはじまり
2024-08-05
夏が本格化して灼熱と言っていいほどの暑さに毎日見舞われています。標高1,500mの上高地でも気温35度と聞いてどこへ行っても暑さは免れないとなると、こんな時は空調の効いた屋内に限るとばかりに上野・東博に足を運びました。
お目当ては神護寺展。あの薬師如来立像と伝源頼朝像をはじめ修復なった高尾曼荼羅が見られるとあって9時半の開場を待って並びました。
今回の展示は神護寺創建1,200年と空海生誕1,250年という平安密教象徴の寺・人の記念すべき年として企画されました。
神護寺はその山号が示す通り洛西の高尾にあり日本屈指の紅葉の名所として有名です。以前この稿でも訪れた際に記したことがありますが、清滝川沿いの駐車場から山道の350段の石段を20分ほどかけて楼門にたどり着く山中にあります。
創建1,200年といわれるようにその始まりは平安初期に遡り、称徳天皇後の道鏡・宇佐八幡神託事件の官僚・和気清麻呂の私寺として建立されています。その後帰国した空海が東寺とともに拠点として国内で初めて灌頂を行ったことでも知られています。その後は官寺に格上げされ、最澄、文覚、後白河、源頼朝、足利尊氏と、この神護寺に関わった歴史上の人物は枚挙にいとまがなく、そのため国宝17点、重文2,833点という膨大な寺宝が収蔵されるにいたったとされます。
その中にあって薬師如来立像は特別の展示スペースを与えられ、ひときわその存在感を際立たせています。作者不詳となっていますが平安初期頃の製作とされ日本彫刻史上の最高傑作の一つとされています。桧の一木造りで杢目がくっきりと表れノミの後も荒々しく残されています。螺髪や衣の彫り出しも深く繊細でふくよかです。
唇に朱が施されたその表情は威厳と慈悲にみちて、病に伏せったとき手を合わせこの如来にすがれば本当にお救いになってくれるのではという精神性を感じさせます。
今回の展示方法では正面と左右から像を見ることができましたが、横からの印象が正面のものと少し違った印象を受けたのが収穫でした。
そしてアンドレ・マルローが「日本のモナ・リザ」と称賛した伝源頼朝像。今回は伝平重盛像と伝藤原光能像と三セットで比較展示されており感動しました。
現在この藤原隆信筆とされる3肖像画は共に国宝に指定されていますが、30数年前より像主をめぐって大きな論争になっていることが知られています。
一つの説は頼朝像が足利尊氏の弟・直義、重盛像が尊氏、光能像が尊氏の子・義詮とする説です。これは「足利直義願文」を根拠としているといわれます。そして近年もう一つの新設として、頼朝像は頼朝のまま、重盛像が尊氏、光能像が義詮とする説で、これは目や唇などの詳細描写など表現上の違いを論拠としている研究成果だそうです。3点並んでの肖像をあらためて見ると、頼朝像だけが右向きに他は左向きになっています。そして首から下の衣装装束については時代様式に則った形式で同じように描かれていますが、顔だけは詳細に肖像の形をとっている点です。しかしこの中で頼朝像だけはこれまで多くの人々、作家や歴史家も含めてこの画像によって頼朝その人のイメージを膨らませてきたこともあって、これを直義像とするには歴史観が変わってしまうという人もいるのではと思っています。それほどにこの頼朝像は凛々しく、風格と威厳に満ちた武家の棟梁の肖像にみえます。
甲斐善光寺にある木造源頼朝坐像はたれ目でこの肖像画とはまた違う印象ですが、はたしてこの研究論争の結論は今後どうなっていくのか楽しみと興味が尽きません。
そして今回6年の期間を経て修復された横4m、縦6mに及ぶ高尾曼荼羅が展示場のメインに吊るされて圧倒されます。高野山などで見る極彩色の曼荼羅とは一線を画した黒の地に金銀泥線で施されたこの曼荼羅は空海自身もその製作にかかわったとされる貴重なものです。その地に描かれた微細な筆使いと詳細な如来像の夥しい数に当時の人のこの図に込めた信仰心と祈りの篤さを感じずにはいられませんでした。
空海とともに華々しく創建された神護寺でしたが平安後期に手の施しようもないほどに荒廃し、その後文覚により散逸した寺宝を取り戻し再興。頼朝、足利将軍家などの支援を受けながらの1,200年間は日本の歴史そのもののような印象を受けました。
その滋味深い寺宝をずっと見ていたい気持ちを持ちつつもこれを後にして、また灼熱の暑さの中に戻されたのでした。