#195 一乗谷の夢
2024-07-08
北陸新幹線がこの春敦賀まで延伸されて福井がずっと近くなり、大宮からだと「かがやき」を使って2時間45分で着きます。
かつては永平寺にバスで行こうとすると前日の夜出て名古屋経由で車中泊して翌日早朝に福井着という行程が一般的でしたが、それを思うと隔世の感があります。
そんな恩恵にあずかり能登半島地震の復興支援もからめて福井一乗谷を訪ねることがありました。
一乗谷は戦国期の名門家である朝倉氏が越前を治めていた時の居城としたところです。室町期の守護大名として入部以来5代100年余にわたって治世を保ちました。冬場は雪に閉ざされる場所ではありますが地勢的利点は多く、中国明との貿易や北前船で栄えた三国湊を足羽川下流に持ち、その下流域には広大な越前平野が広がっています。
その一乗谷城は南北に走る二列の小さな山脈を二列ぐるみ城郭化したもので、その谷筋には足羽支流の一乗谷川が流れ川沿いに一筋の道路が走っていてその沿道に城下町が形成されているものです。初代孝景の時代から家臣団もここに集住させてきたと言いますから一城一国がこの細長い谷あいに集まっていたわけです。敵が来れば南北の細長い袋の両端を締めるようにして防御でき守りには強くできているようですが、閉所に閉じ込められたような閉塞感も感じてしまいます。
昭和46年から発掘調査が行われていて多くの武家屋敷や町並み、城戸跡、寺院跡などが復元されています。
歴代朝倉氏、特に5代義景は京文化にあこがれ建物も京風で連歌、申楽、茶、さらには公家学者による日本書紀や中庸などが講ぜられるなど小京都ともう言うべき呈をなしていたといいます。室町幕府の歴とした守護職として、そのきらびやかな実力もあって足利15代将軍義昭もここへ招かれ一年ほど逗留した時期もあります。漂泊中の将軍に請われ上洛を促されましたが、一向一揆対策を理由に動こうとはしませんでした。信長に上洛を先取され、更にのち朝倉領敦賀・金ヶ崎城に攻め入られ、この時は浅井氏の協力で難をしのいだものの、天正年間になって信長軍の電光石火の再攻撃によって一乗谷はあっけなく落ち一宇も余すことなく焼き払われ現在に至っています。これらを見ていると義景は結局愛してやまなかった一乗谷から打って出ることはなく、義昭や信長に対して外交上の知略を巡らすこともなかったことになります。
名家と名声からくる驕りがそこにはあって、さらにはこの一乗谷の防御の優位性を過信し過ぎたのではなかったか。「変わりたくなければ自ら変わらなければならない」という世の習いにもっと従順であったなら、という思いを入口に残された唯一の唐門を見て思うのです。
その一乗谷の北側入口付近には昨年「一乗谷朝倉氏遺跡博物館」がオープンし、出土品や当時の暮らしぶりが分かるジオラマなどが展示されています。屋内ではありますが2階には朝倉館の現寸再現が一部展示されてその暮らしぶりが体感できるようになっています。当時はもっと鷹揚だったのではと思いつつも、節のないきれいな桧がまだその芳香を残して障壁画などと共に再現されています。設計は内藤廣氏と地元設計グループのコラボとのことで、山並みを暗喩したと思われる屋根群が黒の色と共に印象に残るデザインとなっています。
450年前までここには越前における文化の中心として名家朝倉家の100年余にわたる栄華があったのです。精神としては兵(つわもの)ではない公家どもの夢の跡として。