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社長のうんちく

#194 湖東の名刹

2024-05-31
 琵琶湖周辺は大きく分けて東西南北各地域を湖の名を頭に付けてそれぞれ湖西、湖東などと呼ばれることが多くあります。地形的な条件からそれぞれ発展の仕方が違い、どちらかというと湖西地域は裏寂しく、湖東は肥沃な平野部をもって賑やかな感じを持っています。湖西は比叡山の山すそが緩やかに湖水に落ちているような地形で、はるか昔亡命渡来人が住み着いた場所としての歴史も持っています。それと比べて湖東地域は平野部が広がり彦根、米原、長浜など東海道、北国街道などの交通要衝の地として昔から発展し、その特性と財力をもって近江商人を生んだことでも知られます。
 そのせいもあってか、この湖東の地域には古くから大きな寺院が建てられ歴史の重なりを感じさせています。京都が応仁の乱で街ごと焼かれてそれ以前の建物を焼失してしまったのに比べて、湖東地域までは戦火が及ばず幸い多くの鎌倉、室町期建立の寺院が今にその姿を残してくれています。
 今回その中で近江八幡市にある長命寺という古刹に行く機会を得ました。
 琵琶湖をすぐ下に臨める長命寺山という標高333mの山復にあり、下からは808段の長い石階段がまっすぐ続いて歩いて行けますが、今は脇にある自動車道で本堂下近くまで行くことができます。山の中腹ですから敷地は限られ、狭隘な場所に本堂、三重塔、護摩堂、鐘楼など多くの堂宇が所狭しと並んでいます。建設当時下からの材の荷揚げも含めて資材や足場、職方の配置など、さぞや多くの労苦があっただろうことを想像するに難くありません。
 このうち堂宇と仏像類12点が国の重文に指定されている名刹です。その起源は古く、第12代景行天皇の時代に武内宿禰(たけしのうちのすくね)が長寿を祈願したことに始まるといいますから今から約2千年前のことになります。宿禰と言えば今でこそあまり聞かなくなりましたが、戦前は紙幣の肖像にもなった伝説上の人物で300歳の長命を保ったと古事記に伝わります。のちにこの地を訪れた聖徳太子が宿禰の祈願した文字をここで発見し十一面観音を彫ってこの地に安置し、当寺を長命寺と名付けたとされます。その由来の通り今でも十一面観音像をご本尊とし西国三十三所第三十一番札所の天台宗の寺院として寿命長遠のご利益があると言い伝えられています。
 本堂は平安時代に建立されたもののその後焼失、大永二年(1522年)頃に再建された山内最古の建築物で、昭和7年に解体修理が行われています。桁行7間・梁間6間で入母屋造り檜皮葺き、二重軒の大きな建物で、向拝はなく動線上浜縁の階段が中央でなく右側に付いています。妻の立ち位置が少し奥に置かれて隅木を隅延びで上げて軒反りを強調した、形の良い屋根になっています。中世様式の和様仏堂の好典型として貴重で、無駄な装飾類を用いない格調高い建築に見えます。
 その奥にはさらに一段高い位置に天正年間に建てられたとされる三重塔が鎮座しています。こちらは外部が総丹塗り仕上げで高さは25m近くあり、狭い敷地のため首が疲れるくらいの見上げ方になります。滋賀県内にある七基の三重塔の内二番目の高さを誇るとされ、初重の四天柱内には本尊の大日如来坐像が安置されているそうです。本堂横の崖地には大きな岩が持ち出された形で置かれていて宿禰以来の天地四方を照らす岩として「六処権現影向石(ろくしょごんげんようこういし)」と命名され、かつての巨岩信仰の名残を感じさせます。
 この長命寺山は現在では近江八幡市に編入されていますが、かつては蒲生郡島村という地名でした。東側には干拓地が広がって安土まで繋がっていますが、干拓以前島村は文字通り島だったと言います。おそらく安土城からは湖に浮かぶ島として見えていたのでしょう。この寺のひとつ前の三十番札所が竹生島宝厳寺ですから、かつては船で二つの寺を渡りつないで安土へ上陸したのだろうことが推測されます。
 湖南から湖東にかけての蒲生野と呼ばれる地は琵琶湖の恩恵を受けた肥沃な土地として、また交通の要としての地理的優位性から早くから拓かれ、大津の三井寺、石山寺、湖南三山の長寿寺や常楽寺、湖東三山の西明寺や金剛輪寺、百済寺など多くの国宝級の名刹・古刹が残されています。その歴史は記紀の時代に遡り、百済や新羅の亡命渡来人たちによる大陸文化をいち早く摂取し、奈良・平安を通して日本人の原型を作り関西と関東の峠として常に歴史の表舞台にあったような印象があります。
湖北に上がって賤ケ岳に登ってみると琵琶湖の大きさを改めて実感できて、近江は「近つ淡海(ちかつあわうみ)」を縮めた言葉だというその来歴を感じ取ることができるのです。
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