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社長のうんちく

#179 日光の御用邸

2022-06-20
 梅雨が6月中に開けてしまうという異常な気候によって内陸部の群馬では40度超えの気温連発となって、もはや人の住める環境ではないとさえ思ってしまいます。 水不足や電力の逼迫の心配もさることながら、マスクをしながらの長い夏を思うと高齢者としては健康状況を危惧してしまいます。 こんな時は下界の猛暑を避けて高原の避暑地にでも行ってひと夏を過ごしてみたいものですが、
 関東圏に住んでいると今でこそ軽井沢や八ヶ岳山麓を避暑地として思い浮かべますが、それらが開発されたのは比較的新しく、大正期後半から昭和にかけてだろうと思われます。 それよりも古くから開発されたのが日光で、明治中頃からは首都圏の避暑地として使われ始めていたようです。今でもその名残として中禅寺湖周囲には各国の公館と称した施設が点在して残っています。
 皇室においてもそうだったようで明治32年に大正天皇のご静養先として田母沢の地が選ばれ、造営されたのが日光田母沢御用邸です。
 日光の入り口にかかる神橋から大谷川(だいやがわ)を1キロほどさかのぼったところにあります。田母沢川を邸内に取り入れた面積11,900坪の敷地に移築・増築を重ねた1,360坪の建物群を擁しています。上空からは写真でしか見られませんが、銅板屋根に統一された屋根の重なりが重層的に俯瞰されます。現在は県の施設公園として管理運営されていますが、昭和22年までは三代にわたる天皇・皇太子がご利用になっていたといいます。もともとあった地元銀行家の小林年保の別邸をもとに、紀州徳川家江戸中屋敷であった赤坂離宮を明治31年に移築、更に大正期に即位後の増改築を経て大正10年に現在の姿となったとあります。江戸・明治・大正の三時代の建築様式を持つ集合建築群がよく調和された形で現存しているところが特徴です。
 この造営及び大正期の増改築に設計監理で携わったのが木子清敬・幸三郎父子であったことが記録されています。木子家は古くから皇室・摂関家、寺社の造営に携わってきた家で、 1700年代からの系図が分かっています。幕末まで京都を中心に活動していましたが、清敬の代に東京に進出し明治神宮の造営をはじめ靖国神社、平安神宮などの主要神社や東大寺、日光東照宮の保存修理にもかかわっています。宮内省内匠寮という皇室建築の一切を担っていた部署の代表的な建築家としてその名を歴史に残しています。
 本来は大正天皇の静養先として計画されたものでしたが、元来病弱だったため長い期間滞在することが多くなり執務のための謁見所や御座所が大正期に増築され規模が拡大されました。
 平面計画的には天皇・皇后がお使いになる南側の奥向きとその生活を補佐する臣下向きに区分されており、 総部屋数は106室で、奥向きが23室、臣下向きが83室という内訳から天皇のご滞在に伴い大勢の補佐が必要だったこととその生活様式をうかがい知ることができます。
 一方和風建築の形態でありながら一部に絨毯やシャンデリアなどを用いた和洋折衷の生活様式が採り入れられ、明治維新以降の西洋化の中にあって和風建築の伝統を生かしながら西洋文化との融合を図った部分には近代和風建築につながる貴重な資料を提供してくれています。
 しかし時は大正期の激動の時代、大正7年の米騒動の際にはこの地で静養中でしたが皇室財産から政府を通じて各府県に当時300万円を下賜されましたが、天皇が金銭だけ支出して避暑を続けることに世間から批判があったため政府の要請を受けて急遽東京に戻ったということもあったようです。
 2003年に貴重な建築物として国の重要文化財に指定され、現在は栃木県営都市公園「日光田母沢御用邸記念公園」として公開されています。
 でも、避暑地としてはともかく、静養するには樹木に面した涼しい部屋が一つもあれば十分であったはずで、トイレやお風呂に行くだけにも付き人を伴って長い廊下を行き来し汗を噴き出していたのではないかと庶民感覚では想像してしまい大正天皇に同情の念を禁じえませんでした。
赤石建設株式会社
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