#206 ぶどう寺の国宝
2025-11-21
葡萄で有名な山梨県・勝沼では収穫期を迎える10月頃毎年葡萄祭りが行われますが、その勝沼に「ぶどう寺」と称する国宝の寺院があります。
柏尾山・大善寺がそれで、養老2年(718年)に片方に葡萄を持ちもう一方の手で結印した薬師如来を行基が安置し開創したと伝わりますから、およそ1300年前という古さになります。その頃からすでに甲州では葡萄の栽培があったことが伺い知れれて興味深いのですが、その名に違わずいまは住職自ら葡萄畑を持ち境内で「大善寺ワイン」と称して販売もしています。元々は天台宗に属していたとされますが現在は真言宗智山派の密教寺院として運営されています。本堂と呼ばれてはいますがその謂れから本来は薬師堂として造られたのでしょう。地方の密教寺院としては一般的な方五間の平面で、前方二間を外陣とし後方三間を内陣としています。内陣は来迎壁の後退や脇陣との間仕切りもなく古代仏堂の配置間取りを残したような古風さがあります。外観は寄棟造りの檜皮葺大屋根をあげ周囲に縁を巡らしています。深い軒の出は力強く、太い丸柱上に二手先組物を組み、中備(なかそなえ)を間斗束(けんとづか)とし壁は胴板張りです。この本堂の建立時期については、その隅柱に「弘安九年(1286年)三月十六日」の刻銘があることから一応鎌倉時代中期とされています。「一応」と書いたのは研究者の間からはその意匠上の歴史的考察や古文書関連の研究から少し違った見方が出ているからです。建物の建立時期を確定するのは建築史の上で大切な作業のひとつで、これにより文化財としての価値が左右されるといっても過言ではありません。
意匠上の観点からすると、丸みのある虹梁の断面、外部頭貫(かしらぬき)の木鼻や花肘木、拳鼻(こぶしばな)などが大仏様系で関東以東ではあまり見られないことからその東限を示していることや、二手先組物上の支輪下天井に別の化粧垂木を用いて同時代の建物と比してたいへん技巧的な納めになっていること、虹梁上の花肘木は複雑な形で、弘安年間にここまで変化したとするのは不自然だとして少し時代を遅らせるべきとの指摘があるのです。また文献、古文書類からの研究では「柏尾山諸堂覚書型寫」というものに「正應四年(1291年)柱立成就し畢ぬ(おわんぬ)」とあり完成はもう少し後ではないかと指摘し、また延應三年(1310年)の文書にも「本堂以下の造営を致さんと欲す」とあるのがその時期を指し示すのでないかと推測しています。小屋裏棟木に棟札が確認されれば最も確証のある建立時期資料となるはずですが、昭和29年の解体修理の際には確認されず、先の柱刻銘のみが現場に残された唯一の史料となっているようです。
このような建立時期に不確定な部分があるとき、近年では科学的に構造材の木材一部を採取して「高精度放射性炭素年代測定法」や年輪の中心部から最外層までの複数部位から材齢を確認する「ウイグルマッチング法」などを用いて年代を確定できるといわれます。2年ほど前鴻巣市にある圓通寺境外観音堂の補修工事を行った際、上の方法を用いて年代確定をして成果を上げたことがありました。この観音堂には棟札に改修履歴を記載したものは見つかっていたのですが、上棟時のものは確認されず建立時期については言い伝えで「安土桃山期ではないか」と伝わるのみでした。その言い伝えによると秀吉の小田原攻めの際、その支城となっていた忍城(おしじょう・行田市)を落とすべく石田三成を総大将として城攻めをした折、愛馬が死んだためその霊を鎮めるため馬頭観音菩薩座像を祀ったことに始まるというものです。ここから忍城までは7㎞ほどの距離にあります。忍城攻めといえば映画「のぼうの城」で描かれ有名になりましたが、戦下手といわれた三成が23Kmに及ぶ石田堤を築堤し利根川の水を利用して水攻めをしたものの、城主を慕う農民たちの反抗にあい堤が壊され水攻めは失敗し、結局忍城は落ちずに小田原落城まで残ったとされます。この観音堂の隅柱の欅材を採取、ウイグルマッチング法により材の年代測定を行ったところ、96%の確立で永禄元年(1558年)~天正5年(1580年)の伐採木であることが判明したのです。これにより説明板に江戸期創建と記載のあったものが一気に安土桃山期に書き換えられ、市の文化財から県の文化財へと格上げとなったのです。
言い伝え通り、功を立てられなかった三成が傷心のなか愛馬のためにその霊を弔った際に村民により建てられたものだと分かりより哀惜の念が湧いてきます。内部の虹梁上にある蟇股には一般的に草花や霊獣、霊鳥などが彫られますが、この観音堂のものには珍しく水に浮かぶ忍城をモチーフにした彫刻が施されていて、領主と領民の関係が良好だったあかしだと説明されます。「のぼうの城」で描かれた通り、総大将・成田長親が領民から「でくのぼう」と呼ばれながらも親しまれたその人望がこの観音堂の彫刻からも偲ばれるのです。



