#202 やきものの国
2025-05-13
日本には岩宿遺跡が証明したように旧石器時代があったことが知られています。
黒曜石などの石器を利用した時代からやがて縄文期には土を焼いた土器の時代が長く続き土偶埴輪や什器類がおもにつくられてきましたが、その後も多くの地方では食器類は古墳時代と変わらない須恵器程度の焼き物が中世頃まで使われていたようです。飯や汁を盛るのは木をくりぬいた椀であり、野山に水や酒を携行するのは瓢(ひさご)で、土民に至ってはカワラケくらいしか知らなかったといわれます。中世後半利休などの茶道がはやり茶器などが珍重されると、少し焼成温度を高めた信楽焼や常滑焼などの炻器(せっき)が千金の価を呼び陶器に対する価値観が見直される時代が訪れるようになります。その後磁器の時代が到来、江戸初期に肥前有田の磁器をもって嚆矢とされ、特に九州が「やきもの王国」といわれるようにその産地が多く、有田焼の他、唐津焼、伊万里焼・波佐見焼・薩摩焼など有数のブランドの窯業地として知られるようになりますが、その歴史をたどると今から400年前にこの地方で窯業が一斉に始まることに起因しています。きっかけは「文禄・慶長の役」といわれる秀吉の朝鮮出兵でした。当時朝鮮半島では高麗で中国由来の青磁と白磁の発達したものが広く伝わり、その中から儒教思想にふさわしい清潔で簡素な白磁が普及していました。これに目を付けた鍋島藩や薩摩藩が慶長の役で撤兵する際、現地の陶工らをほぼ拉致同然に日本へ引き連れてきたのでした。今でこそ古伊万里や白薩摩のブランドでゆるぎない地位を得ている九州磁器ですが、半島から着の身着のままの状態で連行された朝鮮人たちは藩から身分こそ武士待遇で保障されたものの、窯を起こすにしても陶土や釉薬の石を探すことから始めねばなりませんでした。露頭が露出している朝鮮半島の山と違って九州の山河には希少で発見までに多くの労力が必要でした。ただ鍋島や薩摩の藩主たちがその値千金に化けるかもしれない陶磁器によって外貨獲得や藩財政に寄与しうると見抜いたのは慧眼といえるかもしれません。薩摩などは後年、慶応3年のパリ万博にその白薩摩の大花瓶を出品し世界的な名声を得て、「薩摩はかつて武勇で知られた。いまはやきもので知られている」とさえ言われ、そしてその輸出により巨利を得、それが結果的にはのちの倒幕のための一財源となったのでした。
司馬遼太郎の「故郷忘じがたく候」という短編にその薩摩へ連れてこられた朝鮮の陶工たちの悲哀が綴られ心を打たれます。鍋島や高取などに根付いた陶工たちはその後日本名を名乗り同化していきましたが、この薩摩の陶工たちは朝鮮名のまま代を重ね今に至っています。そのなかで沈寿官(ちんじゅかん)は代を15代まで連ねその名声と共に現在に至ります。15代400年という積み重ねに唯黙するしかありません。短編の中に逸話が記録されています。第14代が父13代に自分の作品をある展覧会に出品したいとの申し出を懇願する場面があります。それを反対され、泣くように「それでは自分というものは何のために生きているのでしょう」、あなたもこの家とこの家芸を継がねばならぬことで悩まれたと思うが、いったい自分は何を目標に生きてゆけばよいのか、それを聞かせてほしい。「教えてたもし」と懇願するのです。
13代はひとことだけ言ったといいます。75歳の13代自身の生涯の哀歓が煮詰まっていたであろうと司馬さんは書きます。「息子を、ちゃわん屋にせいや」。
わしの役目はそれだけしかなかったし、お前の役目もそれだけしかない、といったというのです。代を重ねるというのは個人を殺した犠牲を重ねるということの壮絶な凄みを思わざるを得ません。当社の6代なんぞ尻が青いと一蹴されますね。
有田は毎年5月の連休中に陶器市を開いています。近隣から多くの陶器好きが集まり掘り出し物を求めて有田駅から上有田駅までの目ぬき通りを賑わせます。
この有田町から北へ少し行くと鍋島焼で名を成す大川内山の藩窯群がポスターのような街並みを形作り、さらに車で15分もすると伊万里の湾が見えてきます。この港を介して有田焼や鍋島焼が多く海外に輸出され、世界に「伊万里」の名を轟かせたのでした。その足をさらに北の唐津の浜、呼子まで伸ばしてみました。リアス式海岸になっている呼子湊の西の小高い丘にはかの朝鮮出兵の拠点となった名護屋城址があります。かつてここには秀吉が陣頭指揮した本丸が鎮座しその周囲には所狭しに大名の陣屋が築かれていたのですが、今は「兵どもが夢の跡」でただ石碑が建つだけの見晴らしの丘になっています。冬の天気の良い日は対馬が見えるといいます。半島までの近さを感じます。せっかく呼子まで来たので名物のイカを食べようと何軒かあるイカ料理店をあたりましたが悉く120分待ちの大混雑で、後の時間を鑑みて断念せざるを得ませんでした。
ここは秀吉の朝鮮出兵と同じで、少し見通しが甘かったといわねばなりませんね。




